公務員と言えば固いイメージがあります。
しかも、税務署員となれば岩盤のように固い。
固いということは、融通が利かないということでもあります。
しかし、私が対決した税務署員の中に一人とても粋な男がいました。
攻防は3時間に及んだのですが、勝敗は今でもわかりません。
ただ私の心には
「税務署員にも粋な奴がいる。そして実に職務に忠実な若者がいる。日本の公務員は素晴らしい」
そんな印象が今でも焼き付いたままです。
ある日の午前、会社の意電話が鳴った。
電話に出た事務の女性が保留にして、言った。
「社長、○○税務署から電話です」
「○○税務署?」
この税務署は自社の管轄ではなかった。
怪訝に思いながらも受話器を取った。
税務署の用件はおおむねこのようなものでした。
A社の税務調査をしているが、その中でどうしても私の証言が必要になった。
しかも、書類の提出期限が明日。
したがって、どうしても本日中に会って欲しい。
大した時間は取らせませんから、というものでした。
そして、電話の向こうで税務署員は二度言いました。
「御社には一切迷惑をかけませんし、これによって何らかの不利益を被ることは一切ありませんから」
相手の表情は見えなかったが、最初は落ち着き払っていた声も、電話を切るころにはやや切迫感が感じられました。
その日の夕方は越後湯沢に行かなければならなかったので、午後2時に会社へ来るようにと言って電話を切ったのです。
税務署員は二人でやってきました。
一人は40代後半で、当時の私よりも少し上かもしれない。
どう見ても、こちらが上司だろう。
もう一人の部下と思われる男は、20代に見えた。
税務署員は例によって名刺を渡さない。
名前を名乗りながらポケットから取り出した身分証をちらっと見せて、すぐにしまい込んだ。
彼らは書類らしきものを紙切れ一枚も持ってきていませんでした。
年配の方が切り出した。
「社長、御社は2年ほど前にA社から合計2億円のゴルフ会員権を買い取り、今年の5月に同じA社へ全く同じ会員権を約8千万円で買い取ってもらっていますね」
「はい、そうですね」
税務署上司「これはA社から脱税を頼まれたのですね。」
私「いえ、そんなことはありません」
若手「だって、そうじゃないですか。1億2千万円も赤字を出して同じ相手に買い取らせるなんて不自然ですよ」
私「まあ、頼まれたと言えば確かに頼まれましたが、脱税のためではありません」
「ウチとA社は10年以上も取引関係にあり、ずいぶんお世話になっていますから、頼まれたら断れないことは事実です」
「でも、脱税を意図しての取引ではないと思っています。先方にも資金繰りなどの事情があるでしょうから」
このような押し問答とも、水かけ論ともつかないやり取りが一時間近く続いたろうか。
若手税務署員がかなり興奮して声が大きくなっていました。
彼の主張はこの一点張り。
「どうして1億2千万円もの赤字を出してまで引き受けたのですか?おかしいじゃありませんか」
同じことばかり繰り返すので、こちらもついカッとなり言い返した。
「赤字が犯罪というなら、日本中の赤字会社の社長を警察に頼んで逮捕しろよ」
上司が若手をなだめた。
その上司にも一言投げつけてやりました。
「あんた、電話でも言ったしさっき来た時も言ったじゃやないですか、我が社には一切迷惑をかけない。我が社の経理内容には一切かかわらないと」
「そうですね」
しかし、この男は落ち着き払って表情一つ変えない。
謝罪もしないし、言い訳もしない。
私も冷静さを取り戻して言った。
「赤字ばかり責められると、なんだか検事に尋問されているような気分だよ」
上司は柔和な顔を見せながら聞く。
「社長は検事とそういうことありましたか?あ、いやいや失礼なことを聞きました」
「いや、ありませんね。テレビドラマで見たくらいです」
かなりの税務署員と会ってきましたが、こんなことを聞く署員は見たことがありません。
「私たちは社長を尋問する権利もありませんし、取り調べる気持ちなどサラサラありません。ただ一言『A社に脱税を頼まれた』その証言が欲しいだけなんです」
「ですから、何度も申し上げているように頼まれたことは事実ですが、脱税は頼まれていません」
上司は「証言が欲しい」と言いながら決して懇願口調になることはなかった。
あくまでも落ち着き払っている。
だが、この上司が税務署員として優秀なのかどうかは、全く判別できなかった。
対して若手署員は正義感が燃えたぎっているのが手に取るようにわかりました。
この後も攻防は続き若手は、またまた興奮するのでした。
「我が日本国の税収のために脱税は断じて許しません」と顔に書いてあるような一途な若者だ。
上司がおもむろに切り出した。
「社長、A社から7千万円の借金がありますね」
おお、ついに出してきたな、切り札を。
「ああ、ありますよ」
上司は続ける「だから言えなのですか?」
「言えないって、何を?脱税は頼まれていないって、言ってるじゃないですか」
理由はわからないが、若手は借金の話になると一切口を出さなくなった。
確かに当時Aから7千万円の金を借りていました。
資金繰りが苦しくなって3年ほど前に借りたのですが、利息さえ1円も払わずそのままになっていました。
税務署が調べていたのは当然のことでしょう。
そして、もう一つ説明が必要なのが脱税だと税務署が言い張る理由です。
今は廃止されていますが、この当時はゴルフ会員権の売買に関して『損益通算制度』が適用されていました。
簡単に言うと100万円で買った会員権が200万円で売れたら、100万円の利益が出ます。
その100万円の利益がほかの所得に合算されて課税対象となるのです。
逆に100万円で買った会員権が50万円でしか売れなければ50万円の赤字が出ます。
この場合は法人なら会社の利益が50万円減り、個人なら年収から50万円差し引いて申告することができる制度です。
基礎控除や短期保有、長期保有などがあり、これほど単純でありませんが、概略はこのような制度でした。
しかし、バブル崩壊によりゴルフ会員権が暴落して、毎年多額の還付金が発生し国庫への負担が大きくなったため、この制度は平成27年の確定申告を最後に廃止されました。
A社が2億円のゴルフ会員権を我が社に売却した時点で、簿価1億8千万円程度の赤字が発生していたようです。
これが売却されたままなら、何の問題もありません。
しかし、全く同じ数十件のゴルフ会員権が売却先から半値以下で戻ってきたから、税務署は脱税とみなし弊社もグルだったと考えたのです。
グルだとわかっているが、お前の会社を管轄の税務署には通報しないから、その代わりに「脱税を頼まれたと認めろ」。
税務署側の主張は、おおむねこのようところです。
激しい攻防が3時間近く続いたところで、上司の税務署員が言いました。
「○○君、ダメだよ。何を言ってもこの社長は認めない。もう帰ろう」
驚いたことにあれほど興奮し、正義の使者を演じていた若手署員が不満の色を見せることもなく、急に穏やかな表情になるではありませんか。
おそらく、若手は上司を尊敬し慕っていたではないでしょうか。
私は二人をエレベータまで送りました。
「お役に立てず、すみません」
上司は答える。
「いやいや。それよりこれからお出かけと聞きましたが、お気をつけてお出かけください」
エレベータが到着すると、もう一言加えました。
「社長、これだけ頑張ったのだから、あの借金はチャラにしてもらわなくちゃいけませんよ」
私は驚いて彼の眼をじっと見て、そして頭を下げました。
顔を上げると同時にエレベータのドアは閉まり、二人は視界から消えていきました。
人の弱みに付け込むような気がするし特に会う用事もなかったので、A社の窓口になっている総務部長へは税務署とのやり取りはあえて話しませんでした。
A社の総務部長から所用で呼び出しがあったのは、その約半年後でした。
二人で打ち合わせをし、話が終わりかけたところで何気なく聞きました。
「ところで、あの会員権売買の節税はどうなりました」
「ああ、あれね。ほとんど税務署から否認されてうまくいかなかったよ」
この部長からこんな嘘をつかれたのは記憶にありませんでした。
「○○税務署の人が会社に来て、帰り際に言ってましたよ。
これほど頑張ったのだから借金は帳消しにしてもらえと」
部長の顔色がアッという間に変化していくではありませんか。
青ざめて、やがて赤ら顔になって言いました。
「ちょっとここで待っていて」
そう言い残して部長は会議室を出ていきました。
20分ほどして戻って来たときは落ち着きを取りもどしていましたが、表情は厳しかった。。
「社長と相談したのですが、我が社とあなたの会社には一切の金銭の貸し借りはありません。今後の取引も一切なしにしましょう」
ゴルフの会員権事業には見切りをつけていたし、7千万円の借金がなくなるのであればこちらに全く依存はありません。
A社がどれほどの問題を抱えていたのか知る由もありませが、部長の尋常ならざる慌て方と言い、社長の決断の速さと言い、税務署員の一言は相当の衝撃を与えたことだけは確かです。
結局はA社との約束を守り、余計なことをしゃべらなかったことが幸いしたのです。
「沈黙は金なり」の類かもしれません。
それにしても人の出会いは不思議です。
『一期一会』の税務署員によって借金が消えてしまうなんて。
少し浅黒い顔で、眼鏡の奥の目はやさしいのか、厳しいのか判然としないが粋な男であったことは確かだ。
正義感に燃える公務員鏡のごとき、あの若者はきっと出世をして多くの部下を指揮して税収確保のために頑張っていることでしょう。
人の出会いほど不思議なものはない。
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