ずいぶんと仰々しいタイトルになってしまったが、考えさせられることがあり調べているうちにこのタイトルになってしまいました。
25年ぶりに再会した父と息子。
息子は3年前に亡くなった母の手紙を携えていた。
離婚してから一度も会うことがなかった前妻から、元夫へ最後の言葉がしたためられていたのです。
手紙を書いたのは、元ザ・ピーナッツの故伊藤エミさん、受け取ったのは歌手の沢田研二さん、そして届けたのは二人の間に生まれた一人息子だった。
久しぶりに男女7人が集まって飲み会を開きました。
年齢は実にバライティに富んでいる。
30代から70代までいるから話題はあっちこっちへ飛ぶ。
一番若い女性がスマホで音楽を聴くサブスクについて隣の中年代男性に教えていたら、突然、70代の親父が言う。
「ザピーナッツの歌が好きでねえ。特に“ウナセラディ東京”と“恋のバカンス”はいいなあ」
酔いが回ると昔を懐かしむ癖があった。
「伊藤エミちゃん、亡くなってもうかなり経つけど、ちょっとかわいそうだなあ。
最後まで沢田姓を名乗っていたらしいけど、ジュリーのことが忘れられないかったのかも」
すかさず、50代の女性が口をはさむ。
「離婚した時、小学生の子どもがいたから、苗字を変えなかっただけよ。忘れられないとか、そんな問題じゃないわよ」
かなり強い口調であるが、彼女自身が離婚経験者だったのです。
シングルマザーで2人の子どもを育てたが、彼女もまたいまだに前夫の姓を名乗っている。
まだ二人とも小学生だったので、子どもたちのことを優先して旧姓には戻らなかったと言う。
彼女のように離婚しても前夫の姓をそのまま名乗る女性が多いことは事実です。
私の知人にも何人かいますが、すべての女性は子どものためだったと言います。
こうして、この話は離婚経験者の強い口調で終わったのです。
だが、私は話題に上ったザ・ピーナッツの伊藤エミさんと沢田研二さんの結婚と離婚が少し気になった。
調べてみると衝撃的な事実が出てきたのです。
特に10年前、ガンでこの世を去った伊藤エミさの行動には、深く考えさせられるものがありました。
伊藤エミさんは双子のデュオで有名な『ザ・ピーナツ』の姉です。
昭和30年から50年までの輝かしい高度経済成長時代に活躍し、多数のヒット曲を世に送り出しました。
一方の沢田研二さんは、グループサンズ『ザ・タイガース』のボーカルを務め、ジュリーの愛称で爆発的な人気を誇りました。
その後ソロに転じ、現在も全国ツアーを行うなど、ロック歌手として活躍しています。
二人は1975年6月4日に比叡山延暦寺で結婚式を挙げています。
この結婚は日本中を驚かせました。
芸能週刊誌さえ気づかなかった突然の結婚だったのです。
花嫁が7歳年上であったことも大きな話題となりました。
今では年の差カップルは珍しくも何ともありませんが当時、花嫁が7歳上というのはあまり例がありませんでした。
二人の間に男児が誕生し、幸せいっぱいと思われた夫婦生活はやがて暗転します。
沢田研二さんの不倫が発覚するのです。
不倫相手は映画『男はつらいよ 花も嵐も寅次郎』で共演した女優の田中裕子さんでした。
この田中裕子さんがまたすごい。
メデアの取材に対して「私はこの人と必ず結婚します」と宣言するのです。
これぞ、まさしく略奪愛です。
代理人を間に入れ話し合いを続けた結果、泥沼のような争いは回避されて、伊藤エミさんは離婚に同意します。
家が隣どうしで芸能界でも渡辺プロダクションでも二人の大先輩であり、良き相談役だった『クレージーキャッツ』リーダーのハナ肇さんは、このように言っていいます。
「本人の望むようにしてあげるのが愛の 証しだ。
エミちゃんは、そう言って離婚届に判を押したんだよ」
不倫相手がら略奪宣言され、それでも潔く離婚に応じた伊藤エミさんではありましたが、他人には到底うかがい知れない苦悩の決断だったと思います。
沢田研二さんは田中裕子さんと不倫関係になって間もなく同棲しています。
したがって、着の身着のままで家を出ていったきり二度と戻ることはありませんでした。
東京世田谷の豪邸、別荘など約18億円の財産が慰謝料として、母子に渡されたと言います。
この時、一人息子は8歳でした。
沢田研二さんはそれ以降、実の息子と会うことができませんでした。
月日は流れ、メデアには決して登場しなかった伊藤エミさんのことが報じられます。
ガンでなくなったのです。
享年71歳、2012年6月のことでした。
彼女はガンが進行していたことを知りませんでした。
家で転倒し強く打った腰を精密検査したことで、ガンが判明したのです。
すぐに入院しましたが病の進行は速く、ガン発見からわずか1月後に亡くなっています。
このとき、伊藤エミさんが最後まで澤田姓を名乗っていたことが話題になったようです。
沢田研二さんを愛し続けたから苗字を変えなかった、と主張する人がいたのです。
これを70歳の親父が知っていて、冒頭の飲み会で議論になったのです。
しかし、今となっては伊藤エミさんの本心を知るすべはありません。
月日はさらに流れ、衝撃の事実が判明します。
別れて四半世紀も会うことがなかった、沢田父子が再会を果たします。
この時、息子さんは母エミさんが沢田研二さんへ残した最後のメッセージを携えていました。
コンサート会場の楽屋を訪れ、沢田研二さんへ直接手渡したそうです。
25年ぶりの再会。
父と子は互いに何を考えるのでしょうか。
どんな会話が交わされたのでしょうか。
自分が沢田研二さんの立場にいたら、息子さんにどんな言葉をかけるだろうか?
想像もつきません。涙が止まらなくて会話ができないかもしれません。
息子さんの立場だったら?
これもまた、想像できませんね。
だが、互いに会えたことはうれしくて、うれしくてたまらなかったのではないでしょうか。
手紙を残した元妻と母に対してそれぞれ、感謝の気持ちでいっぱいだったのではないでしょうか。
手紙にはどんなことが書かれていたのか、それを知るすべはありません。
それにしてもなんという話でしょうか。
離婚してすでに20年以上が過ぎ、病に倒れた女性が元夫へ最後のメッセージを残して旅立つ。
託されたのは二人の間に生まれた一人息子。
伊藤エミさの深い配慮と愛情が感じられます。
かつて真剣に愛し合った男性を一生忘れることのなかった一人の女性と、別れ別れになった息子を実の父に合わせてやりたい、そう願う母の両面が見てとれて悲しい。
そして「パパはいつ帰るの?」と毎日のように聞く幼い息子にやさしく接し、父親の悪口など一切いわなかっただろう母の姿が想像できるのです。
だから、自分を捨てた恩讐を超えて、息子は父の楽屋をたずねることができたのではないでしょうか。
それでも、息子さんが父である沢田研二さんに会う決断をするまで、3年ほどの歳月を要しています。
やはり、ためらいはあったのでしょう。
四半世紀の空白を埋めるために、心の整理や準備も必要だったことでしょう。
死期を悟った伊藤エミさんは一人残される息子を案じたのでしょう。
すでに成人しているとはいえ、兄弟もいません。
父に会せてあげたいと思ったのでしょう。
ただ単に「会いに行きなさい」とは言わず、手紙を残したことに母として元妻としての思いが読み取れます。
そして、タイトル『愛について。あなたは愛する人のために死ねますか?』
これは、作家の曽野綾子さんが著書『誰のために愛するか』に書いています。
「愛の定義を私はこういうふうに考える。
その人のために死ねるか、どうか、ということである」
このようにも続けます。
「子供がひとり燃える家の中に残されたとき、たいていの母親は、とめるものがなければ、火に中に飛び込もうとする。それが愛である」
母、伊藤エミさんにそれを感じたのです。
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