私は家を競売にかけられる前に、2度も家財の差し押さえを経験している。
差し押さえはまず、法務局から特定記録配達のような形で『差し押さえ通知』が届く。
通知書が確実に当人へ届いたことを確認して、役所の作業は次へ進むのだ。
この見慣れない郵便物を受け取ったのは、中学生の長男だった。
夏休みの平日で他は全員外出していたが、長男だけは家にいたのだった。
私の携帯へ電話が入った。
「郵便配達の人が、必ずお父さんに渡してくれと言ったので、中身を確認したら“差し押さえ”と書いてある」
長男の声は明らかに震えている。
「心配しなくとも大丈夫だよ。お父さんが帰ったらきちんと処理するから、誰にも見せないで」
話しているうちに長男が落ち着きを取り戻していくのがわかった。
彼は、たまたま1月ほど前に『夜逃げ屋本舗』の再放送を見ていて、借金取りに追いつめられる悲惨な家族の様子を思い出したのだと言う。
テレビドラマ『夜逃げ屋本舗』は悪質な借金取りに追われる一家に住まいを探してやり、密かに夜逃げさせる人たちを描いている。
中村雅俊が主演だったと記憶しています。
このドラマの記憶が鮮明な中学生が『差し押さえ通知』を受けとるのだから、これはもうたまったものではありません。
それから間もなく法務局から通知が来た。
9月〇日の何時に差し押さえの執行官が訪問するから、家人は必ず在宅するようにとの命令だった。
執行官が来る当日、私は一人で待っていた。
初めてのことなので、やはり不安はあった。
夏休みが終わった平日の午前であり、子どもたちがいないのは幸いだと思いつつ待っていた。
執行官は予想に反して実に穏やかで、正直な男だった。
こちらの質問には、ほぼよどみなく答えてくれる。
まず、訪れた用件を簡単に伝えて、身分証を提示する。
「私が法務局から派遣された者であることを確認してください」といって、首にかけた身分証を手に取り私の目の前へかざした。
このあたりは、税務署員などと違ってとても丁寧だった。
そして、差し押さえする物をチェックしたいので、私に立ち会うように促した。
玄関前でのやり取りを終えて家の中へ招き入れながら、私は執行通知を中学生の長男が受け取ったことを伝えた。
「それはお気の毒でしたね。今は決して乱暴なことはしません。昔のように赤札を貼るようなこともありません」
家の中を案内しながら予想していたのとは、かなり違うことに驚いたものです。
楽器は価値判断が難しいから、100万円で買ったヤマハのエレクトーンは対象外だと執行官は説明した。
子どもたちのために、最も心配していたものが差し押さえを免れたのだった。
絵も差し押さえの対象にはならなかった。
そして、生活必需品である冷蔵庫、洗濯機、エアコン、電子レンジなども対象外だった。
テレビは差し押さえられたが微々たる値段だったように記憶しています。
仏壇や衣類関係には見向きもしなかった。
差し押さえられた総額は、確か14万円強だったような記憶があります。
執行官は差し押さえした物品の一覧表を見せながら言った。
「すみません。一生懸命お働きになって買った財産でしょうけど、こんな微々たる数字にしかなりません」
どうせ後で買い戻すのだから、安い方が助かります。
と思ったが、口には出さなかった。
「ご主人どこか大きなカレンダーを一つ外してくだい」
そう言って執行官は、リビングにかかってあるカレンダーに目をやった。
「えっ、これ?」と言いながら私は壁から外した。
執行官は鞄から画鋲を取り出して、そこに執行明細の一覧表を貼る。
「どうぞ、ここにカレンダーを掛けなおしてください」
私は言われたとおりにした。
「これで誰にも分りませんね。たとえ来客があっても気づきませんから、ご安心ください」
私はこの誠実で物静かな執行官と30分ほど接して、時代は変わったのだとつくづく思わずにはいられなかった。
これまで観たテレビドラマや映画の世界とはまるで違う。
そうしてもう一つ、ある書物が私の脳裏をよぎっていたのです。
居酒屋チェーンで成功を収めた起業家は、子どものころ襲われた悲劇をこのように書いていた。
『父が経営する家業が倒産したのは、小学校6年生の時だった。家中の家具に差し押さえの赤い札がべたべたと貼られた。あの時の情景は決して忘れることができない。
そして、誓った。二度とこんなみじめな目にはあわない。決っして貧乏にはならいと』
この企業はブラックとしてメデアのやり玉にあがり、世間の大バッシングを受けた時期がありました。
これを見て思ったものです。
子どもの頃の強烈な思いを引きずった社長は二度と悲惨な目にあいたくないから、寝食を忘れて働けるだろう。
だが、育った環境が違う他人に自分の思いを強制するのは無理がある。
でも、幼いころに味わった衝撃を源動力とする彼なら、きっと軌道修正するだろうと。
執行官に今後は、どのようなスケジュールで進むのかを聞いた。
彼はとても親切に丁寧に、そして穏やかな口調で説明する。
次は数週間後に買い取り業者が来るけれど、奴らは役所から指定の免許を持っている。
だから、手荒なことはしないはずだ。
もし、何か問題行動をして通報され、指定を解除されるのが彼らにとっては一番怖い。
強面でやってくるだろうが、心配しないで冷静に対処してください。
そして、箪笥などの大きなものもあります。
これを運ぶとなれば費用がかさんで採算が合わないだろう。
だから、その場で買い取るように言うはずです。
執行された金額にいくら上乗せして買い取を迫るかまでは、正直私にはわかりません。
ただ彼らも商売ですから落としどころを考えているでしょう。
執行官は、おおむねこのように教えてくれました。
買い取業者がやってきた。
二人組だった。
親分らしい方は背が低く小太りの蟹股で鳥打帽を被っているのだから、これはもうどう見ても一筋縄ではいかない男だ。
もう一人の子分は、日焼けした体格の良いパンチパーマーをかけた若者だった。
そのまま『夜逃げ屋本舗』で通用するような二人組ではないか。
このリアルさには、思わず苦笑いせずにはいられませんでした。
執行官が言ったようにすぐに買い取を迫った。
14万円強に対して25万円くらいだったように記憶している。
執行官からレクチャーを受けて、自分なりに調べてみたが25万円では高すぎると思ったので、買う金がないと答えた。
すると若い方が階段を駆け上がって二階へ行き、トラックを用意して運ぶとかなんとか、聞こえよがしに叫んでいる。
親分が私を家の外へ呼び出して耳打ちをする。
「旦那、あの若い奴は昨日刑務所から出てきたばかりで、ダメだと言うのにすぐあんな風に騒ぐんですよ」
脅迫にならないよう、かなり研究された言葉だと感心した。
「だけど、あんなふうに二階に駆け上がって大声だして、警察が来たらどうなるんだろう?」
私の放った一言で、一瞬にして親分の顔色が変わった。
「旦那、私も商売できているんですよ。板橋から二人で、しかも初めてだから最寄駅からタクシーに乗りましてね」
タクシーに乗ろうがヘリに乗ろうがこっちの知ったことではないが、その言葉を飲み込んで私は言った。
「17万5千円にして」
「もう一声、19万円にしてくださいよ」
私はこのような駆け引きにはからっきし弱い。
19万円で手を打った。
二度目の差し押さえは違う執行官がやって来たけれど、買い取り業者は一緒だった。
この時は親分一人が来て、ものの数分で買い取は終わった。
親分が言う。
「旦那、交通費と手間賃合わせて、2万円上乗せしてください」
二度目は差し押さえ金額がかなり低かったので、買い取り業者に支払った金額は10万円を下回っていました。
金に追いつめられて自ら死を選択してはいけない。
愛する家族や大切な人がいるなら絶対にやってはいけない。
遺された者は、一生自分を責め続けるのだと聞いたことがあります。
「どうして止めることが、できなかったのか」と。
大切な人、愛する人がいるのなら、その人たちを苦しませないためにも、絶対に自ら死を選んではいけません。
中学生で『差し押さえ通知』を受け取った長男は、サラリーマンをしながら現在、3件のアパートを保有しています。
先日は4件目のアパートを建てるための土地を購入したと電話がありました。
彼から電話が来るときは決まっています。
銀行への対応や取得しようとする土地の状況を説明して、適正な価格であるかどうかなど、不動産に関する相談ばかりです。
だが、どんな些細なことでも、子どもから相談されると親としてはたまらなくうれしいものだ。
もう一度、言いたい。
自らは楽になる方法を選択して、残された者たちを苦しめるようなことをしてはいけない。
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